1 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
桶川分教場は、昭和10年開設された熊谷陸軍飛行学校の4つの分教場のひとつとして昭和12年6月3日に設置されました。当時の東京日日新聞埼玉版に“第三の空都誕生”と報道されています。校舎は、荒川に架かる太郎右衛門橋の上流の高台にあり、戦後、外地からの引揚者の寮などに使われましたが、今も建物の一部が残っています。
当時、日本国内には陸海軍を合わせ200個所近い数の飛行場施設がありました。そのうち陸軍の学校や施設は50個所程度と思われますが、熊本県菊池飛行場(花房飛行場)跡地に、戦後、幼稚園の園舎として使用されたことのある木造の兵舎の一部が残っているものの、施設全体が良好な形で残されているのは、ここだけといえるでしょう。
現在の本田航空株式会社の滑走路とほぼ同じ位置に、幅300、長さ2,000メートルの滑走路があり、滑走路から本田航空株式会社社屋に向かう堤防上には、38×47メートルの格納庫と現地事務所がありました。現在もその基礎や井戸の跡が残っています。校舎は、教室・講堂、将校室、事務室、医務室などがある本部と呼ばれた建物に、学生の宿舎が併設されており、風呂場・食堂棟、便所など、10棟程度の木造建物で構成されていました。
訓練に使用された飛行機は、複葉機(上下2枚の翼)の95式Ⅰ型練習機で、機体がオレンジ色に塗ってあったことから「赤トンボ」と呼ばれ、20機ほどありました。
開校から昭和16、17年までは、他の兵科から航空兵を希望して入隊してきた召集下士官、昭和18年からは少年飛行兵や、学徒動員により大学、専門学校などを繰り上げ卒業して入隊した特別操縦見習士官など、昭和20年までの8年間に20期余り、推定1,500~1,600名の航空兵を教育したと思われます。
昭和16、17年までの卒業生のその後は明らかではありませんが、戦況が険しくなり、航空兵の需要が急増してきた時期の昭和18年9月に卒業した少年飛行兵第12期生は、45名中18名が戦死、19年3月に卒業した特別操縦見習士官第1期生は、80余名中20名近くが戦死しています。桶川分教場の場長の階級は少佐または大尉で、三代目と思われる場長による昭和15年5月の開校三周年記念式典の式辞原稿が現存し、そのとき招待された桶川町助役・秋山比呂の日記も残されています。
空襲が激しくて訓練が難しくなってきた昭和20年2月、熊谷陸軍飛行学校は廃止され、傘下の桶川分教場(この頃は「桶川教育隊」と呼称)も第52航空師団第6練習飛行隊(秘匿名称「紺第540部隊」)に改編され、特攻攻撃の訓練基地となりました。
昭和20年5月、桶川分教場の機能の大部分は札幌飛行場に移転し、教官、整備員の多くも札幌に移りましたが、その後も桶川での訓練は続けられていたようで、桶川に残った元整備員は「赤とんぼ」で特攻攻撃の訓練を実施していたと証言しています。
*札幌飛行場――現在の丘珠(おかだま)飛行場の近く、北海道大学の北にあった旧北海タイムスの飛行場。陸軍はここを接収して、新設の丘珠飛行場とともに陸軍飛行場として使った。
2 教育・訓練
桶川飛行学校での教育期間は、5、6か月の基礎課程で、気象学、空気力学、航空工学などの学科のほか、赤とんぼや九九式高等練習機などによる水平飛行、宙返り、錐揉みなどの特殊飛行、編隊飛行の訓練を行いました。桶川分教場は、初めて飛行機の操縦ができるようになるまでの学校で、訓練では、5、6人の学生に対し、伍長、軍曹、曹長などの下士官の教官(助教)1人がつき、飛行機の前部座席に教官、後部に学生が乗りました。
訓練期間の後期には、戦闘、爆撃、偵察などの分科に分かれて訓練を行い、卒業間際には、野外航法として浜松や岐阜など遠方の飛行場にも演習に出かけました。桶川飛行学校を卒業すると、熊谷本校や全国の飛行学校で高度の訓練をし、または台湾、朝鮮など外地の部隊で実戦機による訓練を経て実戦部隊に配属されました。
教官は、営外居住で外からの通いが多かったようですが、学生は全員が学校内の宿舎に泊り、朝6時の体操から始まり、夕方5時か6時までの教育・訓練が日課でした。第1教育班と第2教育班に分かれ、座学(学科)と操縦実技を午前、午後の交替で行いました。日曜日は休日で、川越や大宮の方に出かけることもできたようです。