特別攻撃隊第79振武隊


昭和20年4月5日

99式高等練習機を戦闘色に塗り替え、12機にのうち6機に整備兵・整備員が同乗して出発

同僚や特攻隊の出発を聞きつけた近所の人たちが見送った。12機は九州の知覧基地に向けて出発した


 

第79振武特別攻撃隊の発進 

 

特別攻撃隊は、一般的に「特攻」と呼ばれ、飛行機が爆弾を抱いて操縦士ごと敵艦に体当たりする世界戦史上例のない攻撃方法で、沖縄戦に多く投入されました。海軍の「神風特別攻撃隊」が有名ですが、陸軍では、沖縄戦のために編成された特攻隊があり、内地では知覧、万世、都城などの南九州の飛行場が出撃基地になり、これらの基地から出撃した特攻隊は「振武(しんぶ)特別攻撃隊」と命名されています。台湾から沖縄に向けて飛び立った特攻隊は「誠(まこと)特別攻撃隊」、本土防空戦において米軍爆撃機B29への体当たりを目的として組織された特攻隊は「震天(しんてん)特別攻撃隊」といわれ、沖縄戦だけで陸海軍あわせて約3,000機の特攻機が出撃したといわれています。

 

熊谷陸軍飛行学校が廃止された昭和202月以降、桶川には特攻要員というべき隊員が来て、特攻攻撃の訓練を行っていたようで、元整備員の証言によれば、隊員は20人ぐらいで、2週間ぐらいずつ、あちこちの飛行場において秘密裏に訓練をしていたようです。

 

昭和2045日、桶川で訓練をしていた隊員のうち12名が、特攻隊として知覧基地に向け出発したことが明らかになりました。「九九式高等練習機」12機で編成され、そのうち、6機の後部座席には整備員が搭乗していました。岐阜県の各務原(かがみがはら)飛行場に一泊し、山口県下関の小月(おづき)飛行場に下り立ちました。翌朝、同乗の整備員と分かれ、4月7日午前、知覧に到着したと、隊員の手記には書かれています。

 

そして、同16日、12機は「第79振武特別攻撃隊」と命名され、沖縄に向け出撃しました。しかし、1機は、爆弾を落下してしまったため一旦帰還し、同22日再出撃。1機は敵機の攻撃に遭い小島に不無着したため、知覧に帰りましたが、飛行機がなく再出撃の機会がありませんでした。

 

隊員は、隊長の山田信義少尉、郷田四郎少尉、清水義雄少尉、二村源八少尉、田中富太郎少尉、山本研一少尉、難波武士軍曹、川島猪之助軍曹、佐藤新平曹長、上野實伍長、池田保男少尉、高橋静夫少尉の12名で、寄せ書きが知覧特攻平和会館に残されています。

 

使用した飛行機は、昭和13(皇紀2598)に採用された「九八式直接協力(直協)偵察機」を改造した「九九式高等練習機」12機で、当時としてはすでに旧式になっていました。通常、練習機は黄色またはオレンジ色に塗装されていましたが、元整備員が、川越から塗装業者を呼んで塗装したと証言しており、元の九八式直協偵察機のように胴体を灰緑色に塗り直したものと考えられます。そして、尾翼には「7」と「9」に桜の花びらをあしらった標識が描かれました。

 特別攻撃隊第79振武隊は、陸軍で初めての練習機編成による特攻隊といわれています。